2010年から2020年までの10年間、西成区の主として「あいりん地区」や「釜ヶ崎」と呼ばれる場所のスナップ。
単に通過する時にシャッターを切っただけの写真。
この場所が孕む本質には、何も迫らない写真。
言葉は悪いが、物見遊山で撮っただけの写真。
そういう興味本位な部分が前提としてあったので、この場所の写真は、あまり発表もしてこなかった。だけど釜に住む方に「それが記録です。記録としての距離感です」と言われて、今回まとめてみた。
数千カットあったデータから、600数枚を選んで連続で眺めたとき、確かにこれはこれで「記録」としての意味があるのではないかと、思ったり思わなかったり。
何の変化もない労働者の街だと思っていたけれど、10年間という歳月は、明らかにこの街を変えていた。
ランドマークだったあいりんセンターは閉鎖され、ほとんど姿を見ることはなかった外国人観光客が、今では当たり前のように歩いている。
スピードはそれぞれでも、街も人も変わり続けるんだと感じることができた。
そんな記録写真です。何の意思も思想もありません。
フラットに見てもらえたら、と思います。
あ、飛田新地の写真も数枚入っていますが、ちゃんと許可を取って撮影しています。
勝手に撮ったのがバレたら、割と大変なことになるのでご注意ください(笑)
西成candid 発売しました。
この写真集は2010年から2020年までの10年間の記録です。基本的にあいりん地区と呼ばれる、萩之茶屋周辺の写真で構成されています(天下茶屋などのエリアも含む)
初めて西成区に足を運んだのは大学生の時でした。
夏休みに日雇いのバイトに行ってたんですよ。
バブルなんかとっくに弾けていたのに、早朝のあいりんセンターは活気があって、十代のぼくらなんか、格好の労働力で簡単に仕事を見つけられました。日当8千円くらいで、弁当付き。弁当つっても、日の丸弁当にオカズはチクワだけみたいな、笑っちゃう内容だったんですけど。仕事は雑用。工事現場で出るがれきを運んだりするだけの単純労働です。
ガテン系というか、当時で言う3K(キツイ・汚い・危険)のイメージありましたが、実際はそんなことなくて、昼休み以外にも頻繁に休憩があったし、オッサンたちの下ネタもあり得ない内容ばかりで、楽しく働いた記憶があります。
当時、あの街の労働者は、色んな人がいました。夏目漱石が「月がきれい」と訳した時の心情について延々と喋ったり、日本では3Kだけど、英語圏では3D(Dirty, dangerous and demeaning)って言うねん、しかも日本発祥なんやでと教えてくれた人もいて、あ、結構インテリも多いんだなって感じたのを記憶しています。
毎日仕事が終わるとオッサンたち混じって缶ビールを飲んで、天王寺から下宿へ帰りました。あの頃のぼくは訪問者でしたが、それでもまだ西成やそこに住む人たちと関りがあったように思います。
いつのまにか西成でバイトをすることもなくなり、再びぼくがこの街に通うようになったのが、今から10年前の2010年頃でした。
もう訪問者ではなく、単なる通行人でした。写真を撮り始めた頃で、単純にスナップ写真を撮りに通っただけです。お店に入る訳でもなく、新今宮からあいりんセンターを通って三角公園に行き、西成警察の前を通って帰ってくるだけ。道で寝てるオッサンや、明らかにクスリでおかしくなってるオッサンを撮って、ただ歩くだけでした。
完全に物見遊山です。
どう取り繕っても、自分を正当化することができない、デバガメ趣味。
それで写真を撮ったつもりになっていました。
だからこそ、これこそ西成だ!みたいな写真としては、発表できませんでした。
本質には何にも迫ってないのです。
完全に上っ面のスナップ。
拙作OSAKA candidには、いくつか掲載していますが、それはあくまで日々の記録の一部でしかありません。
この先も発表することはないなと思っていました。
しかし、西成で生活している方に、「それが記録です。記録としての距離感です」と言われて、考えを変えました。
ここには思想も問題意識もありません。
ただ事実としての記録はあります。
街が変化する様。
それだけを淡々と記した写真集としてなら、それはそれでアリなんじゃないか?と思えたのです。
暴動があった頃から、何も変わらないと思っていたのですが、少しずつ、ほんの少しずつですが、この街も変化しています。
そして2010年と2020年では、決定的に変わってしまった風景もあるのです。
はっきり言って日本でも例があまりない、特殊な街です。
大阪の人間でも、足を踏み入れたことがない方が多い街でしょう。
けれど、やっぱり人が生きる街なんですよね。
今回、この写真集を編集して、ぼくはここが好きだと実感しました。